1コ前の日記を書いて,朝起きたら,これは絶対に読んでいないだろう多忙人noriべぇからメールがきてました。
彼がこっちに帰ってきたら一緒に会いに行こう,とありました。同じ気持ちでいる人がいる,というのがとてもうれしい。会いに行って,しばしのお別れを言ってきます。
夜もらったメールも・・嬉しかったぁ。
とってもショックでとっても悲しかったけど,泣きそうだったし泣いてたけど,普通に毎日を過ごして,普通にお仕事して,できています。ありがとうね。
年齢や関係の近さはいろいろだけれど,これまで,何人かの方を見送りました。特にそういう経験が多いわけではなく,このくらいの年になると,そうなんだと思います。
少し前までは,そういうときもだし,悲しい時,つらい時全般,どっぷりつかることこそ大事,と思っていました。ぐちゃぐちゃになって,涙全部だして,そうしたら出発,っていうか。
でも,何か違うのかな,と今は思います。
もちろん,悲しいことを否定する意味はないし,浸る時間は必要なんだけど,それによって自分の毎日をないがしろにしてはいけないんだ,と思うようになりました。
生かされているありがたさをきちんと噛みしめよう,というのもあるけれど,
もう少し違うところにも,その理由はあるように思います。
あまりにも(亡くなった)その人が「いる」ということも理由の一つです。
同窓会でも,きっといつも彼の話が出て,彼の居場所があって・・・ 彼は確実に存在し続けるんだと思うんです。
一昨年亡くなった先生も,「いる」んですよね。改装して変わってしまった学部棟に行く機会があったんですけど,名前が書いてあるわけでもないのに,雰囲気というか,空気というか,あちらこちらに先生がいるわけです。
なんか,いなくなったことを考え続けてるのがおかしいと思えてくる。そういう生き続け方って,肉体があるうちに頑張っとかないと無理でしょ。だからちょっと焦ってきたりもして。自分がいまどう頑張るべきかということを,考えてしまいます。(生き方の差,って,物理的な生が終わってからすっごく出てくるのかもしれませんね。)
自分も結構それなりの発達段階に来てて,どっぷりつかるよりも優先すべきことがあるんだと,気づいたのも大きいかもしれません。
少しだけ大人な年になって,まだ次世代は相手にしてないけれど,”灰になってしまいそう”だったり,エネルギータンクが空っぽになっちゃっている少しだけ若い子を危険から守るのが,今の自分の仕事なのかもと思っています。仕事が入ったら,悲しみは中断していく,それが大人の仕事というか。
そんな責任感のようなものが,今までの考え方を少し変えたように思います。
実際のところはわかんないですけどね。
そうそう,
神仏に祈る気持ちも,最近ちょっとわかるようになりました。
毎日,仏壇にご飯を供えて,少しの間,念仏を唱えたり黙祷したりして,過去の悲しみと対話すること,祈ること。仏壇の前や神社に行くこともそうだけど,もっと漠然とした,精神的な神や仏に対してでも,祈ること。それは,生や死とのうまい付き合い方の一つのような気がします。
って!1時だ!!やっっばい!
ちょっと最近忙しいのですが,早寝(あ・・)早起きで頑張っていこうと思います。
今日はmusakoさんとも話せて,よき一日でした。最近会えない人が多いから,電話やメールがうれしいです。
毎日,色々な人・ものとのつながりを感じながら,大切に生きていきたいです。
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